キリギリスの雑記帳
キリギリスの雑記帳

第5話
聖地の大晦日


お釈迦様が悟りを開いた場所、仏教最大の聖地であるブッダガヤ。

日本、タイなど各国の仏教寺院が集まっている。

全然信心深くはないけれど、一応仏教徒であるからには、インドに来たらここに立ち寄らないわけにはいかないだろう。



ラジギールからテニー氏に見送られてオート三輪でブッダガヤに向かう。

オート三輪という乗り物は、運転手のほかは、後ろの座席に2名乗るのがやっとだから、本来は3人乗りといったところだ。

ところがここのオート三輪は、なんと! 11人も乗っている!

11人! じゅうーいちに~ん!(驚)

そのままではこんなに乗れないから、前後の座席ともに長い板を横に渡して、前に5人、後ろに6人乗っている。 まるで翼を広げた飛行機が地上を走るみたいに・・



こういうオート三輪があちこちで走り回っている。  しかもスピードを出したまま、すれ違う! (@_@)

板の端に乗った私の顔はそのとき恐怖に引きつっていた。



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ブッダガヤはラジギール以上に日本人観光客が多くて、当然、インド人にとって日本人はいい商売相手だ。

町を歩くと、「ヘイ!トモダチ、ドコイク」、「コニチワ」、「ワタシ、イイホテルシッテル」なんて変な日本語を話すインド人がたくさん寄ってくる。

でも、そんなにしつこくはない。 この町でも、ラジギールのときと同じように「トモダチ」ができた。
ゴパールという名の青年だ。

インド人にしては物静かで、インテリっぽい雰囲気があったが、私を見かけるといつも話しかけてきて、いろんな場所を案内してくれた。

もちろん、彼に騙されたこともないし、物を売りつけられたこともない。



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この町にも暇そうな若者がたくさんうろついているなぁ~

「自分はカラテができる。」とか、「カラテの勝負をしよう。」などというやつが寄ってくる。 当時、ブルース・リーはインドでも大人気で、彼らはブルース・リーを日本人だと思っていた。

カンフーとカラテの区別がつかないから、インドの若者から見れば、日本人は皆ブルース・リーのようにカラテ?ができると信じているようだった。

だから日本人とカラテの勝負をして勝てば、インド人にとっては大変な名誉?で、英雄視されるとでも思っているのだろう。

こちらが一人で歩いていると、暇そうな若者の集団が寄ってきて、「カラテの勝負をしよう。」と言ってきた。 それを言うのは集団の中の一番強そうな一人だけで、あとは取り巻きだ。



さて、こういうときの対応はどうしたらいいか?



最初にこれを言われたときは、

  「自分はカラテはできない。」と言ってその場を去った。

そうすると彼はいかにも馬鹿にしたように、

  「カラテができない? あんたは本当に日本人か?」と

おおげさに馬鹿にしたような態度になった。


くっそー! くだらないけどなんか悔しいぜ。



次回からは少し考えた。



「カラテの勝負をしよう。」

  ・・・来たな・・・

「カラテの勝負をすることは、私の師匠から禁止されている。もし私と戦えば、あんたは死ぬかもしれない。どうしても勝負したいなら、腕相撲ならやってもよい。」

そうして彼らの「代表者」と腕相撲する。



私は腕相撲には自信があった。日本でも友達に負けたことは一度もない。

「代表者」が皆の見ている前で腕相撲に負けると、もう何も言わなくなって立ち去ってくれるのだった。

大抵のインド人は痩せていて腕力はなかったから、この作戦はいつも成功だ。 インドのどの街でも「勝負しよう!」が来たときはこれで撃退した。 (^^)v



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チベット人がやっている安い宿があると聞いていたので、そのアマラというホテルに泊まる。

部屋はいっぱいだと言われたが、どこでもいいといったら、奥の部屋に案内された。 一泊1ルピー(30円)と格安。

安いだけあって、掘っ立て小屋のような建物、窓のない牢獄のような部屋にすのこ板と布切れのベッド。

でも陰気は雰囲気はなかった。 むしろ宿全体が陽気なムードに包まれていた。



チベット人のおかみさんは、いつも歌を歌っているか、なにやら仏教の御勤めなのかしらないがポコポコとタイコを叩いたりして、いつも「音楽」が溢れている。 なんだか、じつにのどかだ。

国語の教師をしているという日本人旅行者から、ヘッセの「シッダールタ」を借りた。 読み終わると、誰かほかの旅行者に渡される。決して国に帰ることはない。 「海外漂流文庫」というのだそうだ。



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大晦日。1970年代最後の日。

昼の間に、日本あてに年賀状を書き、夜になってから他の日本人2人とともに、ゴパールから聞いたチベッタンテントという料理店(本当にテントだった。)に行き、チャンという酒を飲んだ。

アルコールは薄くてあまり酔わないが、いい気分。

夜10時半から、日本寺のメディテーションに参加した。寺で瞑想するのだ。 ヨーロッパから来た旅行者もたくさん混じっている。 むしろ、ヨーロッパから来た人たちの方が多かった。 彼らは真面目に、日本やアジアの文化に興味を持っている様子だ。



瞑想の後、参加者が寺の鐘の前に並んで、1発ずつ除夜の鐘を叩く。

  ゴーーン!

ほろ酔いで1970年代の最後を迎える。

「紅白」も「レコード大賞」もない年越しだ。

  ゴーーン!



インドの地で、日本人もヨーロッパの人もいっしょになって鐘を叩く。

なんだか、ここが世界の中心であるかのような気がしてきた。

これからますます、いろんな国の文化が交じり合っていくんだろうなあ。

いろんな考え方の人が「トモダチ」になって、影響しあう。 自分の国や故郷の価値観だけに凝り固まることもない。

未来は明るいような気がしてきた。




あ、次は自分が叩く番だ。皆が見ている。うまく叩かないと・・

  ゴ~~ン!


1979年が終わり、1980年代が始まった。

旅の前途は洋々、世界の前途も洋々、私はこのとき単純に感動していた。

カトマンズの寺院と親子
カトマンズの寺院と親子


仏教の聖地の次は、ヒンドゥー教の聖地へ


1月4日朝、5時半頃起きて駅に行く。 切符を買ってホームに出たら、薄暗がりの中に、カトマンズで会った事のある小池さんという日本人旅行者が座っていた。

小池さんもバラナシへいくところだというので、彼といっしょに行くことにする。

「インドの列車はとても混んでいて、到着時刻もすごく遅れることが多い。」というのが事前の情報だったので、覚悟していたが、約15分の遅れで到着し、意外に空いていて楽に座ることができた。


列車が駅に停まると、勝手にいろんな人が入ってきて何かを売ろうとしたり、歌を歌ってお金をもらったりする。 靴磨きや乞食まで入ってくる。


インドにはいろんな商売の人がいて、しかもこれらが皆専業で、単一のものしか売らないところが面白い。

はじめてのインドの列車の4時間は、少々お尻が痛くなったのを除けば、快適だった。


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ヒンドゥー教の聖地バラナシ(英名ベナレス)は、駅を降りてみると意外にきれいな街で拍子抜けした。

ガンジス川のガート(沐浴場)近くのYogi Lodgeに泊まることにした。 小綺麗なホテルで、西洋人+日本人専用のホテルらしい。

夜になると西洋音楽が流れ、階下のサロンはいつも西洋人が占領している。
彼らは互いに、トランプやチェスをしたり、ギターを鳴らしたりしているが、どうも我々日本人は一室で小さくなっている。


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ホテルの周辺は細い路地が迷路のようになっていた。

ガンジス川のほとりの遺体焼き場に行ってみた。

なんとも凄いところだ。(;゜д゜)

川のすぐ近くに8~9箇所の焼き場があり、遺体を薪でもろに焼いている。



見ていると、はじめ遺体は布で包まれているが、足のほうが先に焼け、腸なんかが白く焼けているのも見えるし最後に頭が少しずつ焼けていく。

お金持ちなら薪をたくさん買えるから完全に焼いてもらって灰をガンジス川に撒いてもらうことができるが、貧乏人は薪を少ししか買えないので、生焼け状態で川に流されるのだそうだ。

そういう川で沐浴している人々も凄い。


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周りにはインド人がたくさんのんびりと見物に来ており、私が高いところから見ていたら、眼のドス赤い、病人みたいな不気味なインド人が寄って来て、(ガヤの街で出会ったスダマという者に似ていた。)なにやらヒンディー語で話した後、2ルピーバクシーシ(「バクシーシ」とは施しをくれという意味で、多くのインド人がよく使う言葉。)と言う。

ノーと言って知らんぷりしていたら、「Go! Go!(行ってしまえ)」と、語調も荒く詰め寄るので、別な場所に移動して見ていた。


12~13歳くらいの子供も、焼く仕事をしており、鼻歌を歌いながらやっている。

周りには目の赤い無気味な犬たち(まさか焼け残った死体を食っていないだろうなあ)、牛、見物人、薪を運ぶ船とそれに乗っているたくさんの人たち・・・インドらしいと人が言うなら確かにインドらしいのかも知れない。



人間、生まれて死んでいくだけであるが、死んでしまったらなんて悲しいんだろうとつくづく思った。
今生きている美しい女性も、いつか必ず老いて死んで焼かれるわけだ。

生きていることが怖くなった。

それにしてもヒンドゥー教徒の人たちは、死んだらこうして焼かれて、灰をこの濁った川(ガンジス川)に流してもらうことが望みだというけれど、その気が知れない。


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翌日の夜、ホテルの隣の部屋のデンマーク人たちがギターを弾いていたので、ちょっと貸してくれと部屋に入って弾いていたら、小池さんも入ってきて、そのうち何人かの西洋人も入ってきて、ハシシ(大麻樹脂を固めたもの)を吸い始めた。

彼らはハシシを回しのみしていて、私にも回ってきたがギターを弾くのに忙しくて吸わなかった。

ところが小池さんは3回も吸ったら相当おかしくなったようだ。



私はギターを弾くのに夢中になっていたが、ふと気がついたら、みんなが私に、あせって何かを話しかけている。

お前の兄弟が云々というので、たぶん小池さんが部屋に帰ったということだろうと思い、ゆっくりとギターを返して部屋の外に出ると、小池さんが別の部屋のドアの前で突っ立ったたまま動かなくなり、倒れないように後ろから2人のデンマーク人が支えているではないか。

やっと事態が理解でき、デンマーク人たちに手伝ってもらいながら彼を我々の部屋に運ぼうとしたが、彼の体は恐怖で固まっていて大変だった。

翌朝、デンマーク人たちが、我々に「大丈夫か」と心配してたずねてきた。 なんとか回復して大丈夫だった。

旅行記 目次

第1話 旅の序章、 第2話 入国拒否、 第3話  強盗だー!、  第4話 TOMODATI!、 第5話 聖地の大晦日、 第6話 泥棒もひとつの「職業」、  第7話 船旅、  第8話 ヒッピーの聖地(海岸の小屋)、 第9話 ヒッピーの聖地(パーティー)、  第10話 ヒッピーの聖地(LSD)、 第11話 ヒッピーの聖地(朝の光と波の音は・・)、  第12話 インド人は親切だ?、 第13話 田舎を行く列車の旅、 第14話 変わり始めた片田舎の町、  第15話 皆既日食を見た!、 第16話 屋根の上のシタール弾き、  第17話 カルカッタにて、  第18話 ヒマラヤの旅(1)、 第19話 ヒマラヤの旅(2)、 第20話 ヒマラヤの旅(3)、  第21話 ヒマラヤの旅(4)、 第22話 ついに発病か?、  第23話 ポカラの公立病院、  第24話 旅先で発病した人たち、 第25話 酷暑、 第26話 日本は「ベスト・カントリー」だ!、  第27話 目には目を?、 第28話 沙漠の国、  第29話 「異邦人」の町、  第30話 沙漠に沈む夕陽、 第31話 アラーよ、許したまえ、 第32話 イランの印象(1)、  第33話 イランの印象(2)、 第34話 イランの印象(3)、  第35話 中東にはホモが多い?、  第36話 「小アジア」の風景、 第37話 イスタンブール到着、 第38話 国民総商売人、  第39話 銃撃事件、 第40話 旅の終わり、  最終話 帰路・あとがき